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はじめに

みなさんへのメッセージ

この病気は、最悪の病気ではありません。

小児科にいた頃に出会った友達は、頭の手術を繰り返して頭蓋骨の一部に鉄板をはめ、頭を常に坊主にしてる女の子や、注射器を自分で持ち歩いて毎日自分でインシュリンを打っている男の子。酸素ボンベを常に持って歩いてる小さな子。
手術の後で、胴周りがぐちゃぐちゃに変形してる年頃の女の子など。日本に2人しかいないと言われる名前もない難病の子(特に、この子のお母さんが辛そうで、見ていられませんでした)。

そんな子供たちの夢は、
「遊園地に行ってみたい」
「おいしいものを食べてみたい」
「海で泳いでみたい」
「走ってみたい」
と、笑って話します。

こんな話は、入院仲間だけの話であって、皆、家族や友達には言いませんでした。
困らせるだけだと、皆知っていたからです。
小学校2,3年の子供なのに・・。

それに比べてみれば、長年入院してる中でも、私なんか、ささいな病気です。
普通の洋服を着ておしゃれは出来るし、泳ぐ事が出来て、勿論走る事も出来る。
亡くなった友達も多数ですが、それでも、皆とても明るく生きてましたし、生きています。
皆から底知れぬ強さを感じました。

私は21歳まで小児科にお世話になってきましたが、そんな子達と一緒に過ごしていると、くよくよして諦めていた頃の自分をとても恥ずかしくもなり、頑張る勇気も貰いました。
と、言うより・・。
正直に言うと、開き直るきっかけを貰ったと言うべきでしょう。

今だ病気に囚われて閉じこもっている子達にも、やれば出来ることを証明したいのと、用心深い先生達を良い意味で見返してやりたくてがんばっています。
あ、勿論、1番の理由は自分の自己満足のためですよ (*^∇^*)。
もう1度言いますが、この病気は最悪の病気ではありません。
治らないとは言っても、実際再燃しない方だって沢山います。
神経質にならずに、気楽に一緒にがんばって行(生)きましょう。

5月修学旅行から戻ってすぐ、下痢が止まらなくなった。

いままではどちらかとゆーと、便秘気味でした。
環境が変わると便が出なくなってしまうことも多かった。

修学旅行から戻ると腹痛をおこし1週間下痢が続き!おかしいと思い近くの個人病院へ。
診断は風邪。

これが元で悪化の道へまっしぐら!!

5月いつまでも下痢が治まらないので総合病院へ・・。

様子がおかしい。一週間経っても下痢がおさまらない。
でも熱はありませんでした。
念のため町の総合病院へ行ったら、とりあえず入院して検査を進められ、結果は急性腸炎と。直腸からの出血も見られ、水分と飴はOKとのことであとは点滴のみの絶食治療を試みる。

6月 2週間ほどで下痢も治まり約1ヶ月ほどで退院。

この頃はまだ入院とゆーものに慣れていなく、1ヶ月は凄く長く感じていた。
が、いい休憩になった。と思っていた。

6月 週一の通院で様子を見ていたが・・。

6月の末には下痢下血が、また始まり3週間ほどで出戻り。
荷物を解いたばかりで、また荷造りするのが面倒だったのを憶えている。

7月 入院して急激に悪化。中学3年なのに卒業式直前まで退院することはなかった。

退院してから絶食のリバウンドがでた。育ち盛りの中学生には2週間の絶食は結構つらかったらしい。腸に悪いものを食べつづけたと思う。腹痛もあったが、親には言わなかった。食べさせてもらえなくなるから。そしたら、まさかの出血。
人間の体のもろさを知った瞬間。
素直に入院したが、我がまま言って、おかゆは食べさせてもらっていた。が出血がひどくなり腹痛もひどくなり、食べるに食べられない。腕の血管も健康な時でも細いので、血管痛もかなりひどく、手足は針の跡で痣だらけ。栄養も足りないので、鼻から管を入れて、胃に直接、腸まで行かない栄養剤を入れてみるが、胃にものが入るだけで、腸が動いてしまうので、痛みは激しい。
その頃には粘血便1日30回を数えていた。
若さなのか、トイレは自力でいけていた。
ここでIVH(中心静脈高カロリー輸液)を装着。

8月 水一滴飲めない生活

検査をやり直して付いた病名は「重症の慢性大腸炎」(激症の潰瘍性大腸炎。このころの病名が微妙だった。)
お腹の虫が上下とも泣いていた。
食べるなと、いわれるとどんなにお腹が痛くても食べたくなる。空腹で胃が焼ける感じがした。(>_<)
が、中学3年の純粋な女の子には、内緒で食べちゃえなどとゆー考えは、全く浮かばなかった。トイレ通いの毎日。毎日うなり声を出しながら、ベットの上を転がっていた。
こんなに出血しても、痛くてもいきてられるんだー、動けるんだーっと、ちょっと感心した。
絶食を初めて2週間目くらいが一番辛いとこかも。
そして、手術を勧められる。

9月 トイレがお友達・オンボロ病院

当時は病院自体が古かったので、各ベットにカーテンなどついていませんでした。
しかも、廊下側もガラス張りで向かい側の6人部屋も自分のベットから全部見え状態。だからこそどんなに辛くてもトイレまで歩くしかなかった。
着替えする時は保健室にあるようなツイタテ(小さい)をたてて目隠しをする。
今思えばありえない状況ですよね。

10月 まったく飲み食いなしだったので、ステロイドも勿論点滴から。 鏡を見るたび顔が丸くなってることに気づく。

出血は止まらない。
手術の話が進められてるようだった。
母は毎日暗かった。
内科に入院してる20歳のお姉さんが、同じ病気だと聞いた。どうやら一緒に病院を移ってまとめて手術をすることになったらしい。
当時14歳で、結構頭の悪いKASSYは、手術が楽しみだったりした。

10月 母の精神苦痛

病院生活もなれたKASSYは、何気なく過ごしていた。
その裏で親が一番悲しんでることに気づかずに・・。
ある日、母は入院費用を払うのが、大変な事をもらした。
この時まだ病名が「慢性大腸炎」と呼んでいて、難病扱いも微妙だったので、国保だけで払ってた。検査にIVH代など月にかかる費用は約100万円。
そして、お金の事だけではなく、自分の娘がこうなったのは、自分のせいだと思うようになっていたのです。
私が入院してから、父との生活もうまくいかずに追い詰められた母は、ある寒い日の夜、酔っ払って病院へやってきた。
そして「一緒に死のうか?」と言ってきました。もちろん「いいよ」と答えました。
そのまま母は私のベットで朝まで一緒に眠った。
その後、病院の先生に相談したら、特別治療疾患(今の難病指定)の手続きを何度も掛け合ってくれて、治療費を免除してもらえるようになった。

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